プロフィール

澤田隼人の公式歴史

【小学校:岡崎市立山中小学校】
全校生徒324人(当時)ののんびりした学校に通う。
今でもそうだが、伸長は小さいほう。
1年生のときに、隣の教室においてあったパソコンで、
オセロにのめりこむ。(以降、コンピューター好きに)
ソフトボールのピッチャー(背番号1)もやっていたが、水泳のほうが得意だった。
4年生のときに、Windows95にであう。(ついでに、FM-TOWNSにも出会う。)

(主な賞罰) 岡崎市水泳大会 背泳ぎ 優勝、 
       校内理科作品展優勝   読書感想文コンクール 市議会議長賞受賞
校内マラソン大会(約3キロ) ゴール手前で加藤に抜かれて2位。

【中学校:岡崎市立東海中学校】
どこかの優秀な中学校と同じ名前の公立中学に通う。一応7クラスあった。
結構、いわゆる“不良”の先輩にイジラレルことが多かった。
この辺から“イジラレ症候群”が発生したのか?(笑)
中学2年の時には、机をチョークの粉だらけにされたり、
水筒のお茶が全部なくなっていると、不思議なことが起きるが、意に介さず。

中学から水泳部に入り、専門種目はバタフライに転向。
2年生の夏以降、西三河では敵なしの状態で、いくつかの高校から推薦の話がくる。

中学2年の技術家庭科の先生に、プログラミングの基礎知識をなぜか教わる。
これがのちのちの業務に大きな影響を与える。

とくに、HTML(ホームページを作成するためのプログラミング言語)については、
じっくりと教わり、今でもその知識は多分に生きている。

当時メモ帳だけ(つまりはプログラミング)で、100枚のページからなる
WEBサイトを製作。ちょうど【まぐまぐ】が出たころの15歳でメルマガを書き始める。

したがって、この時期からWEB製作暦をカウントすると25歳の時点で
約12年となっており、行政書士の実務経験と比べて遥かに長い経歴…となる。

(主な賞罰) 100Mバタフライ 東海大会6位
         岡崎市内及び西三河地区の大会で優勝すること多数
        音楽室のガラスを割るなど、ガラスを割って修理すること多数。
(故意ではなく、あくまでも過失。いや、重過失か?)

【高校:愛知県立岡崎北高校】
中学の東海大会で入賞したことと、面接時のしゃべりが良くて、推薦入学。
(面接では、12月9日の誕生日が障がい者の日であることにからめ、
当時の自分の志についてうまく話せたから…か。)

中学時代、音楽室のガラスを割って怒られた山本先生の息子と同じクラス(1年次)。
コンピューターを専門に大学では勉強したかったが、中学時代から苦手だった
数学がかなり足をひっぱる。(英語は得意科目だったのですが…。)

そこで進路に悩んでいると、面接のときに左斜め前の面接官で、
当時、私に現代社会を教えていただいていた掛川先生に、
「澤田君は法学部が向いているんじゃないかな?」といわれ、過去を振り返る。

そうすると、小学校の時代(日曜休み→隔週土曜休みから週休2日からの移行期)から
NHKの番組、生活笑百科(←四角いニカクがまーるくおさめまっせ、っていうやつ)を、
毎週見るのが楽しみで帰っていた自分がいたのを思い出す。

また、小学生のための法律入門…みたいな本を読みふけっていたことも思い出す。

だからこそ、私には法律を勉強するしかない!と確信する。高1の1月。文型へ。

1年から2年まで、スイミングに通っていた時代から仲の良かった先輩と、
一緒に水泳部に打ち込む。そのため、成績はガタガタ。400人中、中の下をうろちょろ。

3年の8月前半まで部活を続け、完全に受験戦争のスタートから失敗する。

ここで一発逆転をするにはどうすればいいか、真剣に考える。

そこで出てきた結論、というのが【勉強法の勉強をする】ということ。
当時出ていた勉強本を片っ端から読んで、自分の勉強法を確立する。

ここで確立した、速聴勉強法や多読勉強法は現在に進化しながら確実に、
影響を及ぼしている。災い転じてなんとやら。

その結果、河合塾の全国模試で全国5位(現役生で3位)をはたきだす。
(当時は冊子で優秀者の順位・名前・志望校が全受験生に配られていましたが…)

が、調子に乗ったせい+極度の緊張(逆にプレッシャー)のせいで、
センター試験本番で大失敗。(特に国語。117点。通常時-60点。平均点しか…。)

(主な賞罰) 100Mバタフライ 西三河地区9連覇達成
         3年間で一番高校の図書館で本を借りたで賞(?)受賞。
         生徒指導であった都築先生に呼び出されること多数。
         水の使いすぎで、高校の事務部門に怒られること多数。
         経費節減のため、プールのコースロープを作成すること5本。

【大学:南山大学法学部】
センター試験で満点(英語)と満点に近い科目(政治経済・総合理科)があったのと、なぜか筆記試験でほぼパーフェクトに数学が解けたため、全国試験(センター併用型。現在のセンターマルチ50)で南山大学法学部に合格、入学。

大学入学後すぐに、大手予備校河合塾でチューターを始める。
実は白衣を着て、颯爽とチュートリアルを行う姿にあこがれていて、
ああいう風になりたいと強く思っていたのだ。

「一人でも多くの塾生に、自分ができなかった第一志望校合格を!」がモットー。
週5日以上、河合塾にいるという4年間が始まる。担当生徒は延べ300人超。

毎日数人~数十人(場合によっては百十数人)の前で何度も話すことにより、
人前で話すことに対して抵抗がなくなった。(狙い通りの結果。)
特に塾生によっては一日に私の同じ話を何度も聞くことになるのだが、
同じ内容では申し訳なかったので、話すたびに必ず話題を変えるという離れ業も。

大学1年のときのゼミの先生である故・中村先生に「正しい考え方」や、
「正しい文章の書き方」などの専門家としての基本的な素養を学ぶ。

大学に入ってからも、体育会水泳部にて水泳を継続。しかしながら、スポーツマンであるのに酒を飲みまくる体質と、中途半端な知識で指導をする執行部とのそりが合わないこともあり、また、腰痛の具合が思わしくないこともあって1年ちょっとで退部。

退部後、大学内のチラシにて【南山大学学生入試広報】というのを見て、即応募。
南山大学の学生広報(←どう考えても美人広報ではないが…)として、
東海4県の相談会場・高校を飛び回り、オープンキャンパスなどを実行。

広報として南山大学について、南山学園について、また、大学の授業において
宗教科目・人間の尊厳科目を受講している中で、南山大学のモットーである
【人間の尊厳のために (Hominis Diginitati)】 に熱く強い思いを抱く。

大学2年のころから、ロースクールへ入学することを意識して、
資格試験の勉強を始める。(要は自己アピールとして資格を使いたかった。)

LECの無料体験講座を受講していて、【三枝りょう】という講師に出会い、
なんとなーくの司法書士試験の勉強を始める。

司法書士試験の勉強をしに市立図書館にいったら、高校時代の恩師である
掛川先生に会う。高校2年のときに掛川先生は定年退職されていたのだが、
「今、何をされているのですか?」という問いに対して

「行政書士」 …と答えられた。
私にとって始めてお会いした行政書士は掛川先生である。
(なお、掛川先生は今も同じ支部にて行政書士をされています。)

大学2年次より、民法のゼミ(清原ゼミ)に所属。専門は担保物権法。
もっと詳しくいうと、「物上代位」。一般の方にはよく分からない世界…。
また、法学部のイベントを運営する【法学部ゼミナール委員会】に所属する。

大学3年次に、先輩に誘われてというか、だまされてフリーペーパーの会社を起業。
が、熱意のある3人が集まったのですぐに分裂。追い出される。
(だからこそ、起業家が集まっての起業はおススメしない。)

大学3年の冬。入試業務を行っているときに中村先生が急逝。まだ30代だったが…。
その後行われた偲ぶ会では、聖書の朗読を代表してさせていただいた。
(クリスチャンではない私が聖書朗読を教会でさせていただくことは非常に稀。)

4年生のときに、どうしてもやりたかった【期末テスト対策会】を実施。
このときの受講生のひとりで模擬テストにおいて
【F評価(=単位不認定になるよ!】という評価をつけた一人が、うちの相棒。

ちなみに、あとから分かったのだが、相棒との最初の出会いは、
2年生のときに実施した【体験入学会(オープンキャンパスみたいなもの)】で
あったことが発覚する。(当時私は19歳。相棒は16歳。)

大学4年生の7月、司法書士試験を受験後、なんとなくWセミナーの掲示板を見ていたら、南山大学法学部出身の司法書士が求人をだしていたので応募。
アルバイトとして採用。それが、司法書士法人ファミリア。
入って2日目にやらされたのがMovableTypeのブログ(WEBサイト)の管理と、
SEO対策と、PPC広告(GoogleAdwordsや現・ヤフーリスティング)の管理。

そうこうしているうちに、新司法試験の第2回の結果が発表され、
あまりにも合格率が想定されていた以上に悪いことに愕然。
ロースクールの受験を急遽回避。で、いろいろな先生に怒られる(笑)

(主な賞罰) 定期券を3回落とし、3回とも警察に取りに行ったで賞
南山大学友の会給付奨学金 受賞
         法学部学部長表彰 受賞
         法学部懸賞論文 優秀賞 受賞
主催していたビンゴゲームで1等を当てそうになる。
         (主催側だった後輩にやっといてとやらせたら1等があたってた…汗)
        大学の学長室に呼び出されて、密令を受任。張り込みを実施(笑)
        大学の看板の写真撮影に加わるも、笑顔が硬くて理事会で不採用(滝汗)

【勤務時代:司法書士法人ファミリア】
ロースクール進学を回避したため、そのままバイト先に就職。
名古屋地区で始めて債務整理について電車広告を出すなど、
先進的な事務所であったので、実務を覚えるというよりはむしろ、
経営ノウハウを学んで独立するために、就職。

債務整理のひきなおし計算から、登記部門まで。
引き続きネットワーク管理、WEBサイト管理も担当。
テレビの配線や掃除機の購入も担当。社内の何でも屋さん(笑)。

Bluetoothと携帯電話を駆使して、移動中であっても、
パソコンなどのトラブルに対応できる体制を自分の中に整える。

事務所は頻繁にフロアを移動(7階→4階→2階→別の2階)したので、
ネットワーク作りやオフィスフロアの設計に詳しくなる。

もともとロースクールに行くためという大義名分で始めた司法書士試験の受験だったので、なかなか受からず(←当然の帰結)、また、同期は就職バブル期(リーマンショックの前の超売り手市場だった一瞬)で、金融系でガンガン稼いでいるのを見て、自分との差、特に給料面での差に愕然とする。(後にリーマンショックでガクンと彼らはなったが…。)

そんなときに2冊の本に出会う。

一冊は、日本実業出版社から出ている横須賀てるひさ先生の
「資格起業家になる!成功する「超高収益ビジネスモデル」のつくり方」

もう一冊は、フォレスト出版から出ている竹田陽一先生・栢野克己さんの
「小さな会社・儲けのルール―ランチェスター経営7つの成功戦略」

この2冊を読んで独立を決意。以降、資格で独立起業して、
成功する・幸せになるためにはどうすればいいかということを考えて、
横須賀先生の天才塾に入塾。当時はまだ資格は持っていなかった。

2008年から、日本全国の士業事務所を周る。
その際に進められたのが、早期独立。

いくつかの成功事例を見ていて、見つけたこと。
それは、「行政書士を23歳で始めると、成功している人が多い」という、
本当かどうかよくわからない法則。

そこで、行政書士試験の勉強を開始。わずか3週間の勉強で合格。

2009年5月、ボーナスを全て突っ込んで行政書士登録。
2009年6月15日、行政書士ほみにす法務事務所を開設。
ファミリアとは一線を画し、独自の事務所として副業としてスタート。

【現在:行政書士ほみにす法務事務所】
2010年1月1日、完全独立。
金もない、コネもない、のいわゆるナイナイの状態からスタート。

ただ、「志」、岡崎から日本を元気にする!という熱い思いだけはあった。

最小限の投資で、最大の利益を上げるために、徹底したコストカットと、
徹底した重点投資を行い、徐々に顧客を獲得。

が、一時期は預金残高が4桁まで減少することもあった。

たな卸しをした結果が、この長いプロフィールにも現れているのであるが、
キーワードとなるのが、【人との出会い】でした。

開業する前にも人生のたな卸しをし、【人間の尊厳のために】という、
南山大学のモットーから、【ほみにす】という言葉を戴きました。

多くの人との出会いによって自分が生かされているということを
すっかり忘れていた、ということに気がつかされたから、
【ほみにす】という言葉を事務所名にしたことを、すっかり忘れていました。

そのことに気がついてから、私は変わりました。

多くの人々に支えられて、そして、多くの人々とかかわることによって、
私は進化し続けています。

もしよかったら、一緒に、私と進化、してみませんか?





【アクセス】ファシリテーション株式会社

地下鉄・丸の内駅 8番出口徒歩6分
名古屋市西区那古野一丁目3番16号 G next nagono 5F





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